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当社は「上州三嶋神社」を始め、近在からは「お宮」「三嶋さま」などと親しく呼ばれていますが、 その正式名称を「三嶋神社」と称します。 江戸時代末期の弘化3年(1846)、火災により社殿および古記録の一切を焼失したため、創建年月を含む 由緒については不詳です。社説によると、伊豆国の三嶋大社(現在の静岡県三島市大宮町)から神霊を 勧請(お招き)した地方の古社と伝えられています。
江戸時代以降、明治時代に至るまでは、当社近在の梅原山月上院・光明寺(高野山真言宗)の住職が代々
「別当(神社を管理した僧侶)」を務めていました。
歴代住職の当社に対する信仰心は篤く、当社に残された御神宝や石塔などからその様子を
うかがうことができます。
御神座近くに奉安されている御神鏡も、江戸時代中期の享保21年(1736)、当時の別当・光明寺弘誓と
惣氏子中より寄進されたものです。
現在の社殿(拝殿)は、焼失の翌々年、嘉永元年(1849)から翌2年(1850)にかけて再建されました。
再建事業は別当の光明寺英猛の主導の下、鎮座地の梅原村を中心に進められ、またこの再建を機として
火災等の事故を防ぐため、近隣の村落から神主家の祖が招かれて、神社内に居住して社殿を
管理するようになりました。
なお、再建にあたっては、名主・組頭といった村役人を大世話人として、梅原村の人々が中心となって
事業が進められましたが、江戸時代としては非常に珍しく周辺20ヶ村(現在の明和町全域・館林市南域・
千代田町東部)からも寄付が寄せられており、当社に対する信仰が近隣地域にまで広く及んでいたことが
わかります。
以後、拝殿は長年に及ぶ風雨や近年の大震災の影響によって、現在に至るまでに
幾度かの改修工事が行われましたが、再建から160年余り経った今も、往時の姿をしっかりと留めています。
その後、近代に入ると、明治5年(1872)11月、近隣8ヶ村(現代の明和町中部・東部)の総鎮守である
「郷社」に定められ、地域総鎮守として篤く信仰されました。
現在は群馬県を中心に、近隣の埼玉県や栃木県、茨城県からも、「勝負の神」「虎の神」、交通安全に
霊験あらたかな神様として、広く崇敬されています。